二階堂和美 nikaido kazumi

diary

2011.03.30

前向きなこととして

こんな非常時にここのブログを見る人もいないだろうと思う反面、
私の暮らしはあまり変わっていない、という現状もある

このふた月、たまたま母の入院があり、ほとんど近所から出ていない私の仕事は、
なにひとつキャンセルになったものはないし、物資に困ったものもない。
テレビ番組が変わり、新聞が変わったが、それもまた元に戻りつつある。

「避難させてくれ」と縁遠くなっている友人から連絡があり、腹をすえて構えた日々もあったが
より親しい人に限って逃げる気がないのを見るにつけ、自分の懸念が取り越し苦労であってほしいと願い

一方インターネットを開いたとたんに、日常ともテレビとも違う世界が広がる。
3食共にしている家族と共有しない世界。

目にする情報によって、危機感に苛まれたり解かれたり、意識は振り回され
情報収集に時間を割くことがどれだけ重要なのかも自信がなくなる

私が注視しようがスルーしようが、進むものは進む
そうは言っても、私がやめればやむこともあるし
私がしなければ進まないこともある

「自分にできることはこれしかないから」という有名人や音楽家、芸術家
有名人は確かに、有名だからこそできる励まし、裕福だからこそできる援助があるだろう。
本物のプロフェッショナルには、感動を与える磨かれ熟練された仕事がある。
だが私などがその台詞を口にするのは違和感がある。
この常套句は、謙遜のようで、横柄にもきこえる。
逃げじゃないか?もっとできることあるんじゃないのか?
そう思ってしまうから自分は何事も中途半端なのだ
しょせんそういう部類だ

私のアルバムは、現在ミックスのまっ最中。
とてもその作業をする気にならない時期もあったが、5日前、あらためてこの制作中のアルバムを聴き、私からのささやかな励ましと慰めはここに込めたらいい、と思うことができた。

しかし励ましと慰めは支援と言えるか?
支援は当面はひたすらの募金。そのための労働。

しかしこれらも未来を作って行く行為には足りないのではないか?

原発の事故を受け、広島のイベントで配るチラシを頼まれ、書いた。
上関原発の強行埋め立てを受け、頼まれた雑誌の寄稿も、事故を挟んで、書いた。
いずれも、考えがまだまとまってはいない。
事故以前に、最悪の事態として聞かされていたことが、次々と現実となっている福島の状況には、悪夢を見ているようで言葉を失う。
大津波、大地震、原発事故で被災にあわれた多くの方々には、どんなにか辛かろうと心痛めるばかりだが、今ここで書いたって届きはしない。
ただ、おそらく確実なことは、今後、原発の事故がどういう結末を迎えるのかは見えないが、どう終息したところで東京の電力事情はかなりの長期に渡り麻痺が続くだろうし、日本の心臓がそういう状況にあれば東京はもちろん、日本全体が大きく変わらざるを得ないということだ。
元に戻るという道はない。
あるのは新しい道だけだ。
そんなことはもう多くの人がわかっていると思う。
でもわかっていない人もいるみたいだ。
上関原発計画を已然として進めるつもりらしい中国電力社長のコメントが昨日の新聞に載っていたが、あれはもう頭がおかしいとしか思えない。
まだ山口県知事や総理大臣のほうが、いくらか頼みをかけ得るような気がする。
時折怒りが、お酒に酔って立ち上がるときに「ぐらん」と目が回る感覚と同じように、強い血流となって頭に上ることがあるが、怒りからはあまりいいことにならないのでプーアール茶を投入して油分を分解

とめようとしてもとまらないこともあれば、とまることもある
進めれば進むこともある

なんにせよ、我々がこの地球で未来を生きるつもりがあるならば、
原子力ではなく持続可能なエネルギーに本気で転換することが一番不可欠だと思う。
何をしたらいいかわからない人は、せめてそれを勉強して前向きなことを考えるのがいいんじゃないか。やりようによって、おもしろくもできるはず。
そう思ってnewsにリンクを張りました。
この「都市型狩猟採集生活6」の中での坂口恭平氏と磯部涼氏の発言のすべてが、「そこを聞きたい、知りたい、伝えたい」と思っていることとシンクロしていた。
情報が氾濫していて何を信じたらいいかわからない今、同じ疑問をもつ人を同志として尊敬するし、映画で光のある道筋を見せてくれた鎌仲ひとみ監督はさらに先輩であるし、鎌仲さんが問うた飯田哲也氏の発言を、今自分は頼りにしてみようと思う。

先週から、自宅の太陽光発電について、いくつかの業者に相談してみている。
一年以上前から原発の反対行動に関わりながら今までやっていなかったことも恥ずかしいし、一軒の家でできることはあまりにも小さな一歩だが、まずは自分が始めてみないと人にも勧められない。

これまで相手にしてくれなかった家族がしぶしぶ受け入れてくれ始めたことは、この惨事の唯一の功名だ。
社会にとってもきっと同じことが言える。

あ、正確には、自宅ではなかった
私が住まわせてもらっているのは、宗教法人の建物。
父がこのお寺の坊さんをやっているから今日まで住まわせてもらえている。
そういうことも忘れてはいけないと思っている。
迷ったときに、自分が仏法にも知らず知らずのうちに問うていることも付記しておく。
親鸞聖人もブッダも、それこそ大先輩なのだ。