二階堂和美 nikaido kazumi

diary

2011.09.22

それがパンクス(?)

アルバムができた後はやたらと原稿の戻しやら事務連絡が続くので
制作期とは全然ちがう頭になっている。

子どもの頃はわかっていなかったが、
俳優さんたちがテレビや雑誌に、
出る時はしょっちゅう出ていて、出ない時は全然出ない。
しょっちゅう見てた人が見えなくなると、
あの人も飽きられたのかなーとか思っていたが
そうではなくて、あれは制作期であったのだ。
テレビや雑誌に出る時というのは、宣伝時期なのだ。
宣伝時期とは言っても、裏で別の作品の撮影とか準備は進められているのだろうが
俳優さんはお芝居が得意でやっているのに、
得意でもないトーク番組やバラエティなどに出演して、新作の宣伝などをして行く。
露骨に宣伝タイムが与えられたり、られなかったり、そこまで見せてしまうのもある。
裏方をちらっと見せる感じ
業界は裏方が支配しているのだ、となんとなく知った気にさせる感じ
いまNHKまでが、朝のバラエティなどがそうなっていて、
わたしは番組スタッフの笑い声が入るのは好きじゃない
テレビの向こう側だけで成立してしまっている感じがする
私たちはそれをただ傍観させられてるというか、
内輪受けのかんじだ そんなの80年代の手法なんじゃないのかな
すっかり普及してしまった今、あえて必要なのは硬派なものだと思う。
それが役割というものだ。
そうでないと、反対勢力もちゃんと育たない。
奇抜だった手法も全然目新しくなくなって
全体がぐにゃーんとなって
だれも硬派をやらないなら、しかたない、
本来、抵抗側だったはずの人がそっちにまわる。
逆なようだが、
いまはそっちがパンクスなのではないか。

ともかく得意でもなくても、宣伝しにメディアに出てくる。
制作スタッフみんなの期待を背負って
代表として、看板として
作ったものをアピールするために。

前作『二階堂和美のアルバム』の時にもそれを思った。

でも今作はもっと気が楽だった。
前よりも、もっと全体が自分だからだ。
自分が裏方でもあるから
ほら、いってこい、って自分で自分に行かせている感じがある。

8月15日に開催された、プロジェクトFUKUSHIMA。
あれは、わたしは、志願して行った。
全然誘われてもいなかったのに
ハラカミさんが突然亡くなって、
代わりに、広島代表として、行けるのは私だけじゃないか?
と勝手な使命感を感じてバンクーバーのホテルで深夜、
テニスコーツの二人が寝てるのをうしろに
ひとり、さやのパソコンを借りて、大友良英さんにメールを送った。
7月30日のこと。

こないだ大友さんのJAMJAMラジオ(Podcastで聞けます)に出させてもらった時、聞いた話では
実は出演を希望してきたアーティストはほんとにたくさんいて、たくさん断ったと。
で、ひとしきりそういう処理も終わった後に、
突然私が「出たい」って申し出てきて、
あまりに直前だったゆえに私は入れてもらえた。

交通費もギャラも全員出ないイベント。
被曝のリスクも背負って、バカかもしれない、と思った。

広島の友人からメールが来た。
彼女は自分の遺伝子が、原爆で被爆した祖父母から壊れた状態で引き継がれ、
それを知らずに子を持ち、その子が白血病であることを知り
辛い思いを抱えて生きている
彼女はわたしに、福島に住む多くの人たちへの心配や気遣いとともに、
一度壊れた遺伝子は、かならず受け継がれるから
できればその可能性をわざわざ増やすことはほんとはやめてほしい
というような主旨のことを告げてくれた。
そのメールは、ずっしりときた。
もう、福島に行く3日前だった。
わたしの選択は、彼女のような人の心まで乱した。
あらためて、自分が行くことで、人を巻き沿いにする責任を思った。

彼女からのメールの翌日、私のライブに原田郁子ちゃんが来てくれた。
始めて会った。面識もなかったが、共にFUKUSHIMAにいく女性として、
私たちはどこか運命共同体的な結束力を抱いていたような気がする。
確かにわたしは、自分が出演を申し込む時、
その時点での他の出演者の名前を見れば、(失礼ながら)おっさんばっかりだった。
その中に、原田郁子がひとりで挑んでいるのを見て、放っておけない感情がわいた。
まったくもってよけいなお世話だが。

FUKUSHIMA当日、控え室に入ったらピカチュウがいて
私が、志願して来たんだ、みたいな話をしたら
彼女は、わ、私の他にもいたんだーと喜んだ。

会場に行けば、さやがいた。
「なんでおるん?」「きちゃった」

主催者のみなさんは、ものすごくいっぱいいっぱい考えたと思う。
考えて、調べて、否定的な意見も当然踏まえて、それでもやった。
たぶん、やっぱりパンクスなのだ。
きっとそうなんだろう、というのが一番納得できた。

さて冒頭の動画。2010年のゴールデンウィーク。
祝島へは「祝の島」という纐纈あや監督の映画のプレ上映のために行った。
行きの電車で、横川シネマの溝口さんと「祝の島」のプロデューサーである本橋成一さんと、さらに船からイラストレーターの黒田征太郎さんと合流。
本橋さんも黒田さんも初対面だったが、船の1時間余りを談笑して過ごした。
ライブをするつもりなど全くなくて手ぶらで行ったのだったが、
翌朝、黒田さんの路上パフォーマンス中に余興をやっててくれと急遽頼まれた。
その模様がこの映像。ゆるい。集会所での「にかちゃんライブ」の半年後。
震災の10ヶ月前。
祝島の人たちが原発に反対し続けてきたのは今年で29年目になる。
同じ頃計画された他の土地では、とっくに建設されて稼働しまくっている年月。
その間、圧倒的少数派であったにも関わらず踏ん張り続けてきた人たち。
辞任してしまった鉢呂元大臣が上関のことも「新設は困難」と示したように、今「新設」の扱いであれるのは、彼らがしぶとく、まさにしぶとく、抵抗し続けてきたからこそだ。
今、ようやくまな板の上で議論できるフェアさを得られている。
彼らのふんばりのおかげで、今まさに選ぶ権利が与えられている上関。
今週、上関町は町長選挙のまっただ中。
推進派と反対派の候補一騎打ち。25日が投開票。
反対派として立候補したのは、この映像中7:42あたりで、たみちゃんとツーショットになっている山戸貞夫さん。(なぜたみちゃんはこんなカツラを持っているんだ・・・)
映画「ミツバチの羽音と地球の回転」の中でも彼ははっきりと言っていた。
「自分たちが時間稼ぎしている間に、情勢が変わったらいいと思ってやってる」と。
その時が来た。
山戸さんに勝ってもらわなければならない。
原発にさよならできる国に生まれかわるために。
うーん、選挙権がある人に訴えかけるにはどうしたらいいのだろう。
映像のような選挙応宴でよければ行きますが。(逆効果?)