二階堂和美 nikaido kazumi

diary

2007.03.10

寝言のようなもの

先日風邪気味で薬を飲んで寝ていたら恐ろしい目にあった。「恐ろしい夢を見た」といったり、「金縛りにあった」といったりいろいろな言い方ができる現象だと思うけれど、今は「恐ろしい目にあった」というのがなんとなくしっくりくる。実はこの原稿もその恐ろしい目にあった起き抜けに書いている。夜中の2時半。まだ普段であれば活動時間帯である。だが風邪で寝込んでいるときにはずいぶん夜中に思える。そんなとき、あらゆる恐ろしさから引き戻してくれるのが明かりである。数年前に実感したことのひとつ、明かりと夜の闇の関係。高速道路を山口方面に走っていた時、ふと思った。晴れた日の昼間に見る山の景色はとても美しく、そんな中を車で走るのもとても気持ちのよいものである。同じ道を、帰路、夜走ると、美しい景色は消え失せ、眠さも手伝って非常に怖く苦痛なドライブとなる。しかし美しい景色はもちろん消え失せたわけではない。そこに変わらずある。ただそれが照らされているか照らされていないかという違いだ。これが闇というものなのだと。見えないというだけで、その空間は非常に恐ろしい表情(見えないけど)に豹変する。逆に言うと、その美しい景色と表裏一体にあるそれこそが闇である、と。闇という言葉がはじめて腑に落ちたドライブだった。怖い夢を見た今、それを思い出した。『マトリックス』というハリウッド映画があったが、あの世界は仏教の唯識(ゆいしき)という思想にとても近いそうだ。ということを昨年受けた仏教講習の際、仏教史の先生から教わった。そんなことも今思い出した。私にはまだよく理解出来なかった。お寺での日常と、浄土真宗の教えと、仏教の思想との隔たりにはまだ慣れていない。講習ついでにいうと、宗教概説の講義で習ったゾロアスター教という宗教は、二神教で、昼と夜とを善と悪と考えるということも去年知った。明かりと闇の関係を実感した後だったので、妙に納得した。ちなみにその昼のほうの神がアフラなんとかで夜の方がアングラ何とかという名前だった。ヒューマンビートボックスのアフラ君はこのアフラからとったのかしら、とか「アングラ」は「アンダーグラウンド」からきてると思っていたけど、確かに「暗黒系」という言葉を京都のパララックスレコードで10年くらい前に見かけたことがあるしこっちから来てるかもしれず、きっとアングラにも2系統あるんだろうなと思ったりした。話を夢に戻すが、記憶の断片が無意識に思い起こされる様は何故か恐怖に感じられる。記憶のひとつひとつが恐ろしい思い出であるわけではない。非常に楽しかった1シーンも、何故か不気味にうつる時-それが夢でそれを見るときだ。寝る前に考えていたことなどが断片的に影響をしていたり、身近な家族が出演していたり、ひとつひとつの事象は恐ろしい要因を持ってはいないのに、何故か怖い。そしてその夢は、ずずずぃ~っと私の身体を金縛りに遭わせていく。若い頃と違ってそうした現象に怪奇を感じることはなく、それが脳の働きによるものだとなんとなく知識として知っている今は、ただ客観的にその現象が終わるのを待つだけだが、終わりをうながすためにあえて、体を動かすようにしてみたり、わざと声を出そうとしてみたりしてアクションを起こす。すると少し早く目が覚められるように思う(経験談)。そうして目覚めた瞬間は目が回ったようにグルグル・チカチカしているが、なるべく早く照明器具に手を伸ばす。そうして明かりがつくと、眠気で闇に引き戻されそうなグルーヴから抜けだし、ようやく目覚めることができる。「目覚める」とか「闇」とか言う言葉はとてもよく言ったもので、宗教の中でもしばしば用いられる言葉でもあるが、本当にそれを体験すると、その言葉のもつ味わいが初めて感じられたりする。そういう体験はとても嬉しく、まさにその言葉に「目覚めた」思いがする。
あれ?なんか話が一段落してしまった。
一段落してしまったのでここからは蛇足となるが、いやそもそもこの文章そのものが蛇足であるが、というと本流であるべき情報もそもそもないけれど、とにかく、今、起きて、忘れないうちに書き留めようと思ったことは、明かりってなんて有り難いのかしら。ということ。昔の人は明かりが無かった夜を過ごすとき、どんなにか恐ろしい思いをしただろうかということ。そんなとき信仰というものがいかに有効に働いたであろうかということ。照明器具の整った現代生活の便利さと恐ろしくなさと、その代償の地球破壊や精神崩壊の恐ろしさのこと。やっぱりこの世は恐ろしいことばかりだという真理(たぶん)。それを知って生きていくのか知らないようにするのかという問題。今、階下で寝ているおばあちゃんが死を恐れる感覚は、私などの予想を遙かに超えたリアリティをもって襲ってくる恐怖なのだろうということ。日々ほとんどやるべきこともない90歳の一日は一体何を考えながら起きている時間を過ごしているのだろうか?寝ているときの夢は?そして今日もそんなにたくさん会話をしてあげられなかった。起きているときも見ているかもしれない恐ろしい妄想を紛らせてあげたいのに。ごめん。でも「してあげたい」と考えるのは私の欲とも知っている。「知っている」という言い方は斉藤由貴さんの「卒業」の歌詞を思い起こさせる。
でもおばあちゃんは毎日みのもんたを見ているし、「渡る世間は鬼ばかり」を楽しみにしているし、お笑いのバラエティもよく見ているし、カラオケを楽しんでもいるし、余計なお世話かもしれない。
夜中に聞こえる杖をついてトイレに行く音、が聞こえなくなる日が来ることに怯えるのは残されると思っている私だけど、私が先かもしれない。けどそんな、悲しませることはなるべくないように気をつけて生きなければならない。
どこでおわったらいいか、もはやわからない。

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目覚めたついでに、今日締め切りのクアトロプレスの原稿にしてしまおうと思って書き始めたら、まるで字数オーバーなのでリアルタイムでここに載せときます。お暇つぶしに。あした風邪が回復したらあっちの原稿書こう。短い字数でコラムを書く方がよほど上級技ですね。