二階堂和美 nikaido kazumi

diary

2009.11.10

電気の恩恵

祝島港油彩.jpg原子力発電所の事を考えている。
まだ考え始めたばかりだ。
エネルギーが底をつく問題はずっと気になっていながら
あまり頭を悩ませたくなかったので
電力会社のコマーシャルをうのみにして自分をだましていたところがある。
関心を持ち始めたら、やたら耳に入ってくる。
だから関心を持ち始めただけなのかもしれない。
おとといの「週間ニュース」で、佐賀の玄海原発が始動というのを聞いた。
びっくりした。なんだそれ。
核兵器材料と同じ危険物質の処理が決まってないまま、動き始めるなんて。
即興も、音楽のライブなら失敗しても、ちぇーがっかり、くらいでどうにかすむが
原発のリハなし本番が許されるなんて、いったいどういうことなのだろうか?
だれの、どういう神経で、そういうことが進むのか?
全く理解が出来なさすぎて、とっかかりがわからない。
こないだ「沈まぬ太陽」を見た。
これに関してはまた別にたくさん思うことがあって、見た人と語りたいけど
その中でも、企業と政治家の汚職の内情が描かれていてショックを受けた。
あれはフィクションだとしても、それに近いことが世間ではまかり通っているのか?
それも信じがたい。
わたしがカマトトなのか?
会社に勤めている人たちの多くはあんなしがらみの中で生きているのか?
信じがたいことが現実に起こっているのか?
何を信じたらいいのか?誰を信じたらいいのか?
自分の目も耳も、影響受けやすいのであてにはならないし
よりどころとしている仏教に問うてみたらどんな味わいが導かれるだろうか。

12月、「瀬戸内の海を原発から守りたいイベント」のお誘いを受けた。
これは主に、山口県の上関(かみのせき)という、私の住む町からも近い島に
あらたに原子力発電所が作られようとしているのをやめさせようという動き。
学生の頃、スケッチ合宿に行った祝島(いわいしま)、の前の海岸が計画地。
私が訪れたのは12年前。添付の油彩はその時の稚作。右上の枝がぶざまだ。
最後に迷いながら描き入れてみたものの、集合時間がきて中途半端なまま。
橋が架かっていない故の、時間が止まっているような原風景の雰囲気があって
絵画の先生はそこを選んでスケッチ旅行に連れて行ってくれたのだろう。
計画から既に27年経って反対運動が続いているというから、
その時も既に15年目だったということになる。
わたしはスルーしていた。

「瀬戸内の海を原発から守りたいイベント」
もちろん守りたい
ただ、瀬戸内が守れたらいいという問題ではない。
原子力発電所を建てないで、動かさないで、と頼むからには、
じゃあ電気どうするの?という切り返しに返事がいる。
こうやってパソコンを使う毎日。
照明器具、冷蔵庫、炊飯器、レンジ、テレビ、ステレオ・・・
コンサートをするには音響も照明もたくさん電気を使う。
会場に人を運ぶにもたくさんエネルギーを使う。
電気で走る車がCO2を出さない点はいいかもしれないが
電気はどこからでてくるのか
石油が底をつく事も目に見えている。ガスも石炭も。
そもそもつきるまで使っていいってものでもないはずのものを使っている
期待をかけるは太陽熱発電。
寺の本堂の屋根に発電機をつけたいのだが、と住職に折に触れ持ち出してみるが
景観がくずれる、といなされ、志気が下がる
が、上司へのプレゼンをもっとしてもいいかもしれない
見積もりを出してもらってみようと思う
せめて住居の方だけでも
せめてうちの家庭で使う電気くらいをまかなえないだろうか
そんな微力で何かが変わるのか?
私は使ってないわ、汚してないわ、というだけではその優越感は余計に悪い
だけれども、喜びを人に伝えたら分かち合えることもある

CO2を減らす目標を達成するために、それ以外の廃棄物なら出していい
なんてそんなわけはない
そんな子どもの言い訳みたいな理屈が
大人の世界でまかり通っていること自体が信じがたいが
世間の無関心、積極性のなさがそうさせているのだろうか?
進化欲求は誰にも止められないから、と諦めるしかないのだろうか
便利を知ってしまったら後戻りは出来ないのだろうか
他の動植物にごめんねといいながら、みんなで絶滅していくしかないのだろうか
仮に、将来的にそうだとしても、悪あがきがあってもいいんじゃないだろうか
エネルギーを最小限に抑える方向には、もう向かわないのだろうか
冬はなるべく冬眠生活して、夜暗くなったらなるべく早く布団に入って寝る とか
ギリギリ譲れない最低限のものだけ選んで・・・とかいう部屋掃除みたいな甘い対処ではまるでだめなのだろうか
電力会社も、カラオケの5分前予告みたいに、そろそろ日本の電力足りませんけどどうします?とか忠告してくれてもよさそうなものじゃないか 勝手に延長して請求するみたいなやり方で、信用落として、なんの得があるのか?
一世帯何ワットまで、とかいう具体的な規制か目安を作ってはどうだ?
自粛すれば、もうちょっと削れるものもあるはず
食べ物の無駄も
物品の無駄も

そうやっていくと、
演奏会も、CDという物も、チラシも、それらに費やされる人の労力も
無駄なのかもしれない
どこで線を引くのか
どこをいじったらなにがかわるのか
どのひもをひっぱったら、どこが動くのか

みなさんはどのように考えているのでしょうか?????

わたしのたかが短い人生が、
間違った方向に進もうが、間違ったまま人生が終わろうが、
本人が納得していたのなら、しょせんそれまでなのだから
なんでも、相談とかしょぼいこと言ってないでやってみりゃあいいのかもしれません
でも人の話を聞きたい
疑問も問うてみたい

楽しく過ごすためには、あまりニュースを知らなければいい、とも思う
わたしだって発信なんかしなければいい
外国になんか行かなければいい
見聞・見識など広めなければいい
江戸時代までの多くの人が、自分の半径何キロかから外には出たことがなかったとか聞いたことがあるけれど
狭い世界でしんどいこともたくさんあっただろうが、幸せでもあったろうと思う
身近なことを、丁寧にやって目をかけて、あんまり欲張らずに人生を終える
でもやっぱり辛いことも息苦しいことも、たくさんあったと思う
おばあちゃんくらい近い人でさえ、井戸で水を汲んできて沸かして風呂に入っていたのだ
わたしが子どものころは、おじいちゃんが石炭を燃やして風呂を沸かしてくれていた。
お湯が出ないの、つらい。蛇口ひねってお湯が出るの、すごい嬉しい。

なんて子どもっぽい発想しか浮かばないことだろう・・・

どこにも、いつの時代にも、完璧な世界などないのだな。
安心して暮らせるまち、なんて望むのは
都合のいい要求に思えてきた
この世に安心して暮らせる用意はまるでないのが真実なのかもしれない

でも、なるべく、
「それおかしいんじゃないか」とわかっていてもやる、なんてことがないような
そういう人格形成というのが、これから、ひくべき糸なんじゃないか
ということはやっぱり教育か?
わたしは教員になっておいた方が良かったかもしれない
いや、私などにはとてもつとまらなかっただろう
お坊さんとして、歌手として、もうちょっとできることはないのか
それさえまともにつとまってないから言えば言うだけ恥ずかしい
だからやっぱり半径3キロくらいの生活が・・・
うんぬん
たらたらすみません。
ここまで読んでくださった方、どうもほんとにありがとう。