二階堂和美 nikaido kazumi

diary

2010.06.25

息もできない

もう10日くらいまえだが、
横川シネマで見た映画「息もできない」が素晴らしかった
こんなにいい映画が過去にあったか?と自分の貧弱な映画遍歴を問うても仕方がないが
私の中では、最高だった。
あまりによくて 帰りに駅から家まで遠回りして帰った
たいしたことでもないが
過去さかのぼって10年くらいおぼえがない
10年前はここに住んでいなかったが たかだか地元に戻って5年あまり
駅に出るときは、自転車か 車だ
たいてい大荷物
歩いて帰るってなんて優雅なんだろう
すごい贅沢
町の景色が ああ 美しい
この季節
この日は 普段より、いい靴を履いていた かかと高めの革靴
靴が変わると 歩き方も当然変わって そうすると顔つきも変わる
人は靴ひとつで、人格もかなり操作できる
表向きだけだが、その印象でそれなりに社会は成り立っている
だから注意もしなくてはならない 今日なにを履くのか?
映画がよすぎて、人に会いたくなかった
家族のもとに帰ったらまた 現実に戻される
しかし この映画の しがらみが また 家族
切っても切れない 家族との
ううう
ううう
思い出したらこみ上げてくる
ほんとに いい映画だった
主演の役者が、脚本、監督、編集でもある
わたしは はじめて見る人だけれど
パンフを読むと、ひとつ年下のようだ
やばい 同世代 いや、でも、そうだと思ったな
すばらしい
素晴らしいものに出会うと、とても元気が出る
素晴らしいものでも、やる気をなくすこともある
素晴らしくないものに出会ってやる気をなくすこともあるし
素晴らしくないものに出会ってかえってやるべきことが見えて晴れやかになることもある

「息もできない」はいろんな感情をひっくるめて 引き出してもくれ、慰めてもくれた

おわらないラスト10数分に、ほんとに感嘆した
ここでおわるんかな、と思う箇所か2回あった
でもまだ映画は続いた
あそこで終わっていたら ここまで尊敬しなかった
あそこで終わっていても 十分いい映画だったが
その先、を 見せてくれた数少ない映画
問題提起して突き放しておわるのは ままある
そこで終わらない この映画の素晴らしさ
現実を、その段階まで突きつけてくれて、ようやく 私は慰められた
そうだ その循環
容赦ない
そして人生はつづく

余韻は、風呂上がりもつづいて
缶ビールを片手に、汗を引かせに寝間着のまま川土手
まだ じーん としている

すぐにブログにかけば、まだ あと数日、上映期間が残っていたものを
いまさら書いたのでは もう見れないじゃないか
なんて不親切な情報なのだろう
ざまあみやがれ
とは 酔ってるときのうちの父親の口癖
ニュースをみながらよくそんな暴言をはきまくる
坊主として最低
ヤン・イクチュン監督。
「このもどかしさを抱えたままでは、この先 生きていけないと思った。すべてを吐き出したかった。」

いよいよアルバムの録音にとりかかった。
「またおとしましたよ」以来 自分の中に抱えているものを 吐き出したい。
「二階堂和美のアルバム」「ニカセトラ」「solo」それぞれで、宿題をすこしずつ消化してきたが、私の場合は一作にすべてをこめるというやり方はできていない
それは靴を選ぶようなものかもしれない

宿題 と思うのは 次に進みたいからだろう
自分の中ではどんどん先に進んでいる しかし足下がおぼつかない感じなのだ
だから、宿題はある程度目に見える形でやっておかないといけない
不器用ゆえ
自分のためだ
ライブはその場で消えてゆく
わたしは声を出しながら聞いている
それを客観的に体験することは不可能だ
録音物は、みんなと同じ立場で接する権利というか可能性のような希望があって
フェアな感じがする

最近 気に入った鞄を買った
ずっと、もらいものを使っていたりしていた
あたためていたものはいつも、飛び入りに先手を打たれて後回しにされる
用が足るものがあるのに 新しいものを買うのは贅沢だと
しかし 贅沢は 時には必要なのかもしれない
心まで貧乏になってはならん
ゲゲゲの女房で水木しげる役の役者さんがそんな台詞をいいながら
貧乏なくせにプラモデルを買って作る
この数日 星野源くんの役、主人公の弟にスポットがあたっていて、長く出るから嬉しい 身内贔屓

それにしても「息もできない」という日本語翻訳はどうかと思う。
原題は「トンパリ」直訳すると「くそバエ」らしい
源くんのソロのうたには「くそ」がよくでてくる