二階堂和美 nikaido kazumi

diary

2010.04.27

ナメクジのように

めずらしく昼間にパソコンに向かい、音楽をかけながら文章を書こうとしているが
やっぱり難しい。音楽を聴きながら何かをするのはとっても難しい。
しかしながら4世代にまたがる家族と生活していると、3人くらいとの会話を同時進行で進めたりすることも結構あるので、だんだん聖徳太子化してくる 学校の先生などいかばかりか。

先日の東京、泊めてもらった友人宅のトイレの壁に貼ってあったいくつかの展覧会のチラシ、東京はやっぱりボコボコ面白そうなものが転がっていて、一瞬ときめいたりするが、すぐに卑屈な感情も湧く性分だ
そうは言いつつも、せっかくだからワタリウム美術館のジョン・ルーリー展に行った。
絵の感じがとてもよかった。でもそばに言葉があると、絵をまじまじと見る気分がなくなった。
意味はよくわからないのであまり心には響いてこなかったが、一番いいなと思った絵はポストカードにも図録にも載ってなかった。
おかしいなあと思ったら、3万円以上する限定図録に、限定版画として付いていた。げー と思ったけど、版画だしな、これはもしかして買うんでしょう私は、とか思いながらちょっと熱を冷まそうとショップの方をうろうろしているうちに、その付録の限定版画というのが本物よりも随分サイズが小さいので、これはない、と思ってやめた。代わりに「正義で地球は救えない」という本が目に入ってきた。
うわ、わたし今めっちゃ正義でものを考えてるかも、と思って手にとって、あとがきを読んでいたら「ほんとうの環境問題」という本の続編のようだったので、まずはそっちを買って帰った。

ワタリウムを出てすぐのおそば屋さんのおそばがおいしかった。東京はそば屋がたいていおいしくてすごい。これは卑屈にならずに単純に喜ぶ。別のテーブルに座っていた西洋人の男性2人が、日本語で会話をしていた。しゃべってる日本語自体は若干かたこと感があるものの、その声の音量や間合い、控えめな笑い方などが、ものすごく日本人男性らしくて不思議な気がしたが、外国に住んでいて、相づちとかが外国人ぽくなってる日本人はこういうことなんだろう、と納得した。

品川駅の新幹線のりばでレイ・ハラカミさんにばったり出会った。ハラカミさんと新幹線のりばでバッタリ出会うのは2回目だ。ほかにも、エゴ・ラッピンのよっちゃんと羽田行きの電車の中で会ったり、デルタのあやさんとロンドン行き飛行機の搭乗口で出会ったり、この一年以内だけでも意外とあるものだ。わたしの「脈拍」という歌のなかの「いつどこをふらつけば あの人に会えるのか」というのは、それなのにあの人にはなかなか会えないという気持ちを歌ったものだった、などと思い出した。バッタリ会うというのは、ドラマのようにドラマチックにはいかないが、意外とあるということで、希望を持ってもいいと思う。

ハラカミさんに「ライブですか」と尋ねたら、「ユーストで」と言っていた。
「ユースト?ってなんですか?」
「ユーストリーム。しらないか」
「ああ!昨日その言葉聞きましたね、昨日私が出たダブルフェイマスのライブもそれやってたと言ってました」
「今が一番おもしろい時期だから」
「ああなるほどそうかもしれませんね」
「ツイッターとかやってる?」
「いや、まあたぶんそのうち入会?します」
「あ、うん、入会料いるから」
結局ハラカミさんのそのユーストというのはあいにく見逃してしまったが
ハラカミさんのこういうことの鼻がいいのはさすがだ。

帰りの新幹線の中で買った本を読んだ。一年に一冊読むか読まないかくらい本を読まない私にしては、半分くらいまで読めたからましなほうだ。
寄稿した「真夜中」も読んだ。宗教特集と勘違いしていたが、信仰特集だった。
内心、なーんだと思った中で、ECDさんはびしっと宗教に触れていた。切れ味はやはりダントツで、悲しいくらい響いてきた。石田さんが文中触れられている宗旨では私はないけれども、宗教の中にいる自分にもむけられていないわけでもないので、ずっしりと手応えがあった。
寄稿の際、私がつい、依頼された文字数の倍以上の原稿を書いてしまったので、当然半分はカットされたわけで、しかしながらその作業は、アルバムを作る作業にも似ていた。自分の名前で発表される作品ながら、人との共同作業で客観性を練り込みながら仕上げていく点。それでも、目が痛くなるほど小さい字になってまで、なるべく残してくれた編集者さんに感謝している。カットされた部分についてはいつかまた折りにふれ、ここらへんで出てくると思います。
ところで、daily vitamineで取材いただいた死生観についてのインタビューは、アーカイブは残されず消えてしまったのかな?残念。私の探し方が下手なのかな?

「おばちゃんたちが・・・」というブログを書いてからもう10日くらい経ってしまった。
あの「翌日」、中国電力に電話をかけた。そしたら土曜で留守電だった。肩すかしを食らって、う~ん、じゃあファックスの文面でも考えよう、と思って考え始めたら結構やっぱり難しくて、代わりに寝床で漫画を書いた。私が言う漫画というのは、葛飾北斎の「北斎漫画」がいわゆる漫画じゃないみたいに、いわゆる漫画じゃなくて、ようは思いつきの手に任せて描くメモ落書きみたいなものだ。
枕元に紙がなかったので、転がっていたストッキングの台紙の裏表に描いた。それを翌朝印刷して「堂脈」で配った。ちょっとレイアウトを変えて4/24のライブにも持って行った。開場まえに、ばたばたしていてスタッフが捕まえられず、フライヤーの束の隣に置いておいたら、後から聞いたら、開場前に店の奥に仕舞われていた。

日にちを戻すが、土日をおいて平日になって、気を取り直して中国電力に電話した。代表電話にかけて「上関の原子力発電所のことで」と言ったら、女性のオペレーターさんが慣れた口調で「はい担当に変わります」と言って広報課というところにつながれた。生まれて初めて抗議の電話というのをしてみたのだが、もっと軽くあしらわれるのかと思いきや、一時間近く論議を交わした。ようは言いくるめる部署なのだなあと知った。冷静に話をしようと思うとまるで自分はインタビュアーみたいだった。「こども記者」になった感じがした。抗議はできても、こちらによほどの知識がないと、相手を言い伏せる反論は難しい。相手は説明会の口調で、向こうの言い分でこっちを納得させようとしている。
様々な問題点をひとつひとつ質問、抗議しているうちに、やっぱり一つだけ、これがために、やっぱり建てない方がいいとはっきりと言える点が見えた。
それは、廃棄物はくるんでくるんで地中深くに埋める、と決まっていても、
埋める場所が決まっていないということ。
今探しているらしいけれど、それが決まってもいないうちに建設するなんて、そんなばかな話が通るなんて、どう考えてもおかしい。今ニュースで話題になっている基地の問題も似ていて、やっぱり国の軽はずみな政策が原因なのだと実感した。

文部省が小学生相手にポスターコンクールを推進して、原子力が地球に優しいエネルギーであるとすり込んでいるサイトも見て、心底おぞましく感じた。

電話を終えて、こどもたちのポスターも見て、もしかして、私は、自分の町に原発が建つ、となったら、ここまで反対に燃えていただろうか、とふと思った。
私は、おばちゃんたちの30年の重みに突き動かされているのだと思う。
祝島の人たちの反対運動が、いかに少数派で厳しい選択であったかということを思い知り、それがまるごと無駄に終わっていくのが、心苦しすぎる。
私が日常生活を送っている間も、仕事をしている間も、あの人たちは、今日も自分たちの漁業や農業に専念できぬまま、海を守るために、将来のために、身を張って冷たい浜の地にナメクジみたいにへばりついている。「生活のため」ではもはやない。だって、彼らは生活さえ既に投げうっている。老後もなにもかもだ。運動家、活動家ではない。ただの島のおばちゃんがだ。
わたしにわからない難しい問題を、おばちゃんたちだって、わかっているわけではないと思う。
「ほんとうの環境問題」で池田清彦さんや養老孟司さんが分析したりアイデアを出してくれているような頭のいいアイデアや切り返しが、ここからでてくるわけもない。なのにやっている。ということは私のような頭のよくない人にもできる。というかやらないといけないのかもしれない。
ああ、また正義でどうにかなると思っている そうではない
うーん、頭のいい人が考えた、よさそうな案が、どうして国に通ってないのでしょうか??どういうことなのでしょうか??
大人になると勉強しないといけないことがたくさんあるようで、やっぱり若いうちにしっかり趣味に興じておくのは大事なことかもしれない。

漫画を添付しておきます。

原発にか漫画01おもて.jpg

原発にか漫画01中面.jpg